2013年3月11日、ラッパーだというのにもうここ数年言葉にならない日々が続いている。二年前の今日、それ以前に感じていた違和感は確信へと変わった。この世界にはおかしなことが溢れるほど存在していて、まるでずっと昔からそうしてきたように、本当はただ知らないだけの自分たちがなんとなく大人たちに渡されたバトンを持って右往左往している。おかしいことをおかしいと言うことがおかしいとされるこの世界で、果たして同じようにこどもたちにバトンを渡して良いのだろうか、いや、自分にそれができたなら今こうしてこんな文章を書いてなどいないだろう。しかし何もかもただ反発しているだけで良いとも思えないし、力任せではなくて自然に変化していくことが大前提になることも承知している。
言葉にすることはとてもリスキーだ。そこに責任が生まれ、同じ言葉でも受け取る側で色合いが変わってくる。もしかしたら大凡解らないことだらけのこの世界で、確定的なことを言うことにそれほど意味は無いのかもしれない。けれどそれでも人間は実体を求めて、或いは実体化することで心の平穏を保っているようにも見えて、それが時々滑稽にさえ思えてくる。激しい突風が吹き荒れた3月10日は高崎に1,000人もの人が集い、脱原発を訴えながらデモ行進が行われた。そして、それぞれがそれぞれに今日という日を思いながらきっと過ごしている。あの時、何を感じ、何を考え、どうするべきだと思ったのか、多くの人は気付いたかもしれない、また多くの人は気付かないままかもしれない、未だ激しい怒りはあるけれど、全てはポジティヴなパワーだ。
トロイメライの作曲家シューマンは云う、
「音楽について話すとき、一番いい話し方は黙っていることだ」
まずは黙って気持ちのいいグッドミュージックを聴いておこう。そこにはきっと気持ちのいいグッドな考え方が育つから。
ラップを再開するのはきっとそれからでも遅くないはずさ。