「長生きしたけりゃ肉は食べるな」と「肉を食べる人は長生きする」そんな本があるそうです。日本人に合っているのはどちらなんだろうと考えています。どちらも様々なデータがあるようですが、必ずしもどちらかであるべきという答えには至らないと個人的には思っています。臼歯や犬歯など歯の構造から合っている食べ物のバランスがあると言われればそのようにも思えるし、穀類や野菜類などと違って細胞の繋がりが強い肉というものが消化するのにとても時間が掛かるというのも理解できます。しかし反対に人が環境によって必要として肉を食べていくのであれば、それはそれで間違っているとも思えないのです。でも考えてみればこの二分化自体が必要なものなのだろうかと感じています。どちらの方が長生きしただとか、データを引っ張りだして数字で説得するようすを見ていたらなんだかふと思ったんです。
「誰に人の寿命がわかるというのだ」
と。人が生きた年数などそもそもが平均を出すことで判断されているに過ぎないのではないだろうかと思うんです。
仮に寿命が五歳だった人がいたとして、三十歳まで延びたなら、それは長寿ではないでしょうか。逆に百歳まで生きられる人が、七十五歳で亡くなってしまえば、どうでしょうか。同じ差であっても我々の感覚と経験で判断しているに過ぎないのです。きっと。
肉を食べる、食べないの議論をする前に、それらが作られていく工程や生産者のこと、命をいただくということ、その上で食べるという精神性を教え育んでいくことが大切なのではないでしょうか。と思うわけです。環境のことを考えると肉を選ばないことのメリットは極めて大きいと言えますし、必要以上に生産されて殺されて食卓にあがり、そして余れば捨てられていく。一見このサイクルで成り立っているようにさえ見えますが、大量に生産し、大量に消費し、大量に廃棄されているこの関係を解いていくことはとても大切だと思っています。
願わくば、「安ければよい」「旨ければよい」「早ければよい」というスパイラルから離れ、それらを生み出す数々の原因と向き合うこと。これではじめて「食育」なのではないでしょうか。野菜を作るための苦労があり、そこで育った鶏や豚、牛たちも深く感謝されて人に食されてきました。生産性と合理性ばかりを求めて作られた食べ物の記憶は分断され混乱し恐怖に満ちているように思えます。それらを食べた人々の心も、分断し、混乱し、迷走しているのかもしれません。
「食べたものに成る」
という意識を持って自分の体に摂り入れるものを選んでいけたら幸いです。