ずっと考えている。
病気の根源が別のところにあるのに、それによって引き起こされている別の症状をメインに持ってきて
その症状に効くという薬が処方される。それはまるで、袋に水を溜めようと注いでいるのに肝心の漏れている穴を
塞ぐことをせずに、上からドバドバと注ぎ続けているようなものだ。と誰かが言った。糠に釘、暖簾に腕押しである。
世の中は今、環境問題があちこちで騒がれ、それ自体がビジネス化していることは言うまでもない。
良く言えばそれは素晴らしく経済効果もあるし、環境にも配慮しているわけだから、悪い要素の方が見当たらない。
しかしその全てが良い方向に流れているとは限らず、中にはちゃっかり進められてしまうような計画も少なくはない。
例えそれが良い計画であってもそうでなくても、雇用が生まれればそれを糧に生きる人々が新たに生まれることは確かだ。
だからこそ現地で働く人々の雇用問題の背景も見ていかなければならないし、日本の一極集中、過疎化という根本にも
目を向けなければいけない。六ヶ所の核燃料再処理工場本格稼動が3月と言われる中、まだまだその認知度や国民の関心は
低いものだ。僕の住む群馬県内では「六ヶ所村ラプソディー」が過去2回、上映された。しかしまだまだ知らない人達の方が
圧倒的に多い。原子力発電所とは無縁な群馬という土地、そこに原発の情報が一つ二つ流れてきたところで薄っぺらいテレビ
から聴こえるラブソングに掻き消されてしまうだけだ。ましてや音楽でそれを訴えても、頭の固い見た目だけが大人の連中は
あくまで目の上のタンコブとしか見ないし、そこにある本質よりも先に、髭面や金髪、ピアス、タトゥなどへの注意ばかりで
そこに気付くことさえしてくれない。勿論一部の若者は口の聴き方一つ知らないし、言葉そのものの意味を軽んじている傾向も
ある。それもまた問題ではあるが、思いやる心を大切に育めるようなコミュニケーションに乏しい原因があるはずだ。
根元を探る、戦後の日本の経済成長は尋常では無かった。しかしそれを実現する為に日本人の元々あった生活様式は、核家族化の
推進という形で失われていった。同時に、マンションや一戸建ては増え長屋やサザエさん家のような大家族は自ずと減っていった。
当然それまでにあったコミュニケーションや適度な緊張感はプライバシーだとかプライベートだとかいう過度な事情で損なわれ、
今では携帯電話やインターネットという情報ツールによって人と会わずに済む生活環境を作り上げることに成功した。
しかし
僕らは何も手に入れてやしない。
相変わらず朝起きて、食事や睡眠を繰り返す。
そして最後には生まれてきた者の証として死んでいく。
現代がどれだけ進化したのかは知らないが、これだけは今のところ断言できる。
輸入品ばかりに頼った食品から見ても、孤食は増え外食の売上ばかりが右肩上がりだ。町を歩けばコンビニがあるし、
インスタントな愛情たっぷり弁当も自然に売られている。しかし、そこに親子や相手との会話は無く、存在も無い。
拍車をかけるように大量生産は雇用を生み、残業を生み、経済の発展を生んだ。
さて、しかしこの虚しさはなんだろう。
僕らは何も手に入れてやしない。
誰だって自分の周りにしか意識なんてできない。だけど大切なのは
「どこまでを自分の周りであると気付けるか」だ。一つメッセージを打ち立てれば二つ三つと反論も飛び交うが、
僕らが抱えている問題の多くは僕ら自身にあり、例えそれがここ群馬という土地から離れた青森であろうが、
まったく無関係とは言えないことに気付かなければならない。これだけでも多くの事に思いを巡らせなくてはならないし、
現状、今を生きる僕らにとってそれは、簡単なことでは無いし、「どうだっていい」「面倒だ」という答えに収まりかねない。
しかし、それこそが「思考停止」であって、そこで善くも悪くも思考している者達が舵をとりだしている。要するに目的地を
知らされないまま、日本という船が、どこかに向かって動いているということだ。僕らが理解し難い問題という壁を目隠しにして、
壁の向こう側で思考している。
どの道、地球にだって寿命はあり、それまでは好きな事をやって生きたいと思うのは自然なことだと思うが、
僕らの子や孫、大切な人、お世話になった人、そんな人達の笑顔が見られないことは実に悲しい。
ずっと考えている。
袋の穴を塞ぐことで、水はまた溜まり始める。
しかし
僕らは何も手に入れてやしない。
潜